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バレーボールは、アメリカの教育者ウイリアム・G・モーガンが、老若男女を問わず楽しめるボールゲームとして考案し、YMCAを通じて全米に紹介され、やがて世界へと広がっていった。
日本にも1913年に伝えられたが、バレーボール自体が発展途上の時代だったため、日本独自のルールが考案されたりしながら、その後9人制を中心に発展した。
一方、欧米では第2次大戦後にはほぼ現在と同じ6人制のルールが確立され、1949年に第1回の世界選手権が開催されている。
バレーボール全日本女子は、1960年の第3回世界選手権に初参加すると、当時の無敵王者ソ連から1セットを取る健闘で銀メダルを獲得。さらに1962年の世界選手権ではついに念願の金メダルに輝き、世界中を驚かせた。
世に言う『東洋の魔女』の誕生である。
そして、オリンピックでは初めて正式種目に採用された東京大会(1964年)で、日本中の期待を背負うプレッシャーに押しつぶされることなく、大松監督が鍛え上げた回転レシーブを中心とした粘りのバレーで勝利を重ね、決勝でライバルソ連を破り、晴れある初代オリンピックチャンピオンの称号をものにしたのである。
この快挙に日本中が狂喜し、空前のバレーボールブームが到来。職場や学校で老若男女問わず、夢中でサーブ、レシーブ、トス、それアタック!と、飛躍的に競技人口を伸ばしていった。
さらに『週刊マーガレット』に連載されたスポ根バレーマンガ『アタックNo.1』が、ブームをさらに爆発的なものとし、ライバル誌『少女フレンド』が対抗して連載を始めた『サインはV!』は、ドラマ化もされ、30%を超える視聴率を記録した。
ちなみにテレビアニメ『アタックNo.1』は欧米でも放映され、多くの有名選手が、このアニメがバレーボールを始めるきっかけになったと語っている。
日本では『ママさんバレー』なる言葉も現れ、高度成長期の日本の代表的レクリエーションとなるのだが、考案者のモーガン氏の『女性や子供でも気軽に楽しめるボールゲームを』という理想をもっとも実現させたのは、もしかしたら日本かもしれない。

バレーボールに青春を捧げた多くのバレー少女の中から、厳しく選び抜かれたトップ選手たちは、その後も血の滲むような努力を重ね、オリンピックに挑むことになる。
68年メキシコシチー五輪、72年ミュンヘン五輪では、決勝で宿敵ソ連に敗れ銀メダルに終わるも、76年モントリオール大会では強打の白井貴子を中心にライバルたちを圧倒。決勝のソ連戦は3ー0のストレート勝利、しかも最終セットは15ー2と圧倒的な強さを見せ付け、見事二度目の金メダルを獲得した。
大会を通じて1セットすら失うことが無かった完全優勝であった。
だが、この大会を境に日本女子バレーはピークを越えることになる。
次回モスクワ五輪代表チームは、モントリオール以上、史上最強との呼び声も高かったが、ソ連のアフガン侵攻に抗議すべく日本は不参加。
続く84年のロサンゼルス五輪は、ソ連がボイコットしたものの中国に敗れ銅メダルに終わる。
そして88年ソウル五輪では準決勝でペルーに、さらに3位決定戦でも中国に敗れ初のメダル無し。
92年バルセロナ五輪は5位、96年アトランタ五輪は9位と低迷が続き、ついに2000年のシドニー五輪では世界最終予選で敗退し、初めて五輪出場権を逃してしまったのだった。

どん底からの脱却を図り、若手中心のチームに切り替えた04年アテネ五輪では、なんとか出場権を得たもののベスト8が精一杯。
08年北京五輪の前年には24年ぶりにアジアチャンピオンとなり、本番の五輪でも期待されたものの、準々決勝でブラジルに敗れ5位に終わる。
そして日本バレーボール協会は2012年ロンドン五輪に向け新体制を発足。
『火の鳥NIPPON』をキャッチフレーズに、王国復活を目指すのである。

この物語は、バレーボールに青春のすべてを賭けた美しきアスリートたちの情熱と感動の物語である(ウソ?マジで?)。
(つづく)

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2010.11.12 Fri l 泣き虫エリナ l コメント (2) トラックバック (0) l top
藤永祐実27歳。
全日本女子バレーボールの精神的支柱としてチームを引っ張る大黒柱で、国民的人気選手である。
名門相模原実業高校時代から春高バレーやインターハイで大活躍してマスコミから熱い視線を浴びた。
ショートカットが似合う女子高生時代、キャッチフレーズ好きのテレビ局が付けたニックネームが『ボーイッシュビューティー』。
キリッとした美形、すらりと伸びた手足に意外と大きな胸を激写しようと、体育館にはカメラ小僧たちが集結して警備関係者としょっちゅう揉め事を起こしていたが、そんな喧騒をよそに本人は悠々と高校三冠を決めてしまう。
卒業後はVリーグの名門・レッドエスパーダ入団。
早々にアタッカーとしてチームの中心選手となり、元々強豪チームだったこともあって、あっさりとVリーグ優勝を経験、おまけに得点王をも獲得してしまう。
19歳で全日本初招集。初めての大会となったワールドカップバレーでは、レフトのサイドアタッカーとして先発出場すると、外国勢のお株を奪う強力なスパイクを連発して堂々たる世界デビューを飾った。
身長170センチはアタッカーとしては小柄だが、抜群のスピードと勝負勘、コースを打ち分ける頭脳的な攻撃などで、長身の外国人選手たちをきりきり舞いさせたのだ。
21歳の時、アテネ五輪にエースアタッカーとして出場。
ただし、この時は大会前から腰を痛めていて思うようにポイントを決められず、途中交代させられる試合もあり、チームもべスト8止まりに終わっている。
その後はスキャンダルに巻き込まれたりしたものの、アテネの反省から力任せの攻撃一辺倒ではなく、頭脳的な攻撃や守備にも力を入れ、さらに精神的にも大きく成長。
25歳の時に挑んだ北京五輪では、エースアタッカーの称号こそ若い選手に譲ったものの、ブロックアウトを狙ったスパイクやフェイント、磨き抜かれたサーブに加えて守備も巧みで、状況によってはトスも上げられるオールラウンドプレーヤーに成長していた。
性格は前向きでどんな窮地に陥っても決してあきらめず、チームメイトたちを叱咤するも、試合が終われば明るいキャラクターで観客を魅了する。
特にインタビューでの受け答えは絶妙で、一度など世界大会で強豪に逆転勝ちした試合で、感涙にむせぶ男性アナウンサーに代わってヒーローインタビューを取り仕切って喝采を浴びた。
この頃には『ボーイッシュビューティー』と呼ばれた時期から、年齢相応の落ち着いた女らしさも備えて来ていて、元々が色白で眉目秀麗なことから『スノービューティー』と呼ばれたり、対照的に熱いプレーを見せた時などは『燃えるファイティングスピリッツ!』だの『ジャパン魂!』などとアナウンサーが絶叫した。
この人気を周囲が放っておくはずがなく、雑誌の表紙やテレビのスポーツバラエティー番組にも常連のように出演し、ついにはテレビCMにも登場して幅広い人気を獲得。特に女性向け栄養ドリンクのCMでは、バレーボールのユニフォーム姿のほか、OLやお姫様、女子高生姿などの七変化が話題となり、商品も爆発的な売り上げを記録した。
一部では、北京オリンピック後に引退、芸能界入りかと騒がれたが、本人は『オリンピックでメダルを取るまでは辞められない』と現役続行を宣言。2012年のロンドン五輪を目指すと明言した。
そして一年間のイタリアセリエA留学を終え、新たにVリーグに参戦した新進チーム『アルタイル』への入団を発表。
親会社の名物社長自らが入団交渉し、日本人選手史上最高額の年俸で契約を果たし、若いチームの牽引役を任せられる。
さらにロンドン五輪を見据えたチーム作りを急ぐ全日本の前原監督からキャプテン就任を要請され、これを快諾。ニックネームもそのまま『キャプテン』と呼ばれるようになる。
名実ともに、日本の中心選手として王国復活の期待と責任を負ったのである。

まさしく順風満帆な選手人生、実力もあるが人間的な魅力にも溢れ、監督たちからは信頼を、後輩たちからは尊敬を、そしてファンからは親しみを受けるスーパースター。
ところが人間はそう簡単なものではない。
まるで竹を割ったように開放的で気前のいい性格と評判だが、一皮剥けば餅をついたような性格だったりする。
まあとにかく、この藤永祐実がこの物語の主人公の一人となる。
(つづく)

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2010.11.13 Sat l 泣き虫エリナ l コメント (2) トラックバック (0) l top
藤永祐実は少しだけ疲れていた。
長くバレーボール界の第一人者として活躍し、世間の注目を集める一方、日本人の常で自分のことは棚に上げ、一流スポーツ選手には高い人格、人間性を求める。そんな期待と現実のギャップが面倒くさかった。
『昔はこうじゃなかった』
つい年寄りじみた独り言も口にしてしまう。
たしかに以前の自分なら、他人の目なんて鼻で笑い飛ばしていた。やはり隠しがたい肉体的な疲労も影響しているのだろうか。
170センチの身長は世界で渡り合うには低すぎたし、長い現役生活をずっと世界の第一線で戦ってきた代償か、肩、ひじ、手首、腰、膝、足首と、ほとんどの関節が悲鳴を上げ始めていた。
27歳という年齢は、社会ではまだまだヒヨッコだが、バレーボールのトップ選手としては、そろそろ退き際を考える時期なのだ。

名門相模原実業高校時代から春高バレーやインターハイで大活躍したけれど、たいした練習なんてやらなかった。
『手抜きのユミ』
これが高校時代からアテネオリンピックあたりまでの祐実の隠れたニックネームだ。
実際、監督の前でだけ適当にやっておけば、後はチンタラしていても高校生相手なら誰にも負けない自信があった。
そんな祐実の態度に批判的な教師やOBもいたが、バレーの実力で跳ね返した。高校時代は監督が放任主義だったのが祐実のわがままに拍車をかけた。
当時から盗み撮りした画像が男性誌のグラビア面に掲載されるぐらい、折り紙付きの美少女だったから当然男にもモテモテ。
高一でバレー部の先輩に処女を与えて以来、とっかえひっかえ彼氏は星の数。
一度はマスコミにご乱行を嗅ぎつけられそうになるも学校側のファインプレーでなんとか揉み消すことが出来た。
全日本入りしてからはテレビから声が掛かることも多くなり、若い芸能人たちと夜な夜な遊び歩くようになった。
そうなれば、さらに練習には身が入らない。
「筋肉痛がひどいので、今日の練習は休みます」
朝、ホテルのベッドからサボりの電話を掛ける横に、今をときめくアイドル少年が裸で眠りこけていたりした。

そんな手抜きな状態でもバレーボール界ではさらに存在感を増して行き、全日本でも欠かせない中心選手となっていた。
アテネオリンピックの予選でも大活躍。日本の2大会ぶりの五輪出場に大きく貢献したが、つまずいたのはそのオリンピックだった。
大会前から腰に違和感があり、それでも大したことは無いと放置していたらどんどん悪化し、最悪の状態で五輪に突入。
結局、大会中ずっと満足なプレーが出来ず、走り込み不足でフル出場もおぼつかない始末。
日本チームはなんとかベスト8には進出したものの、祐実にとっては散々な大会になってしまった。
そしてマスコミが得意の戦犯探しを始め、真っ先に槍玉に上げられたのが祐実、そしてもう一人、祐実と同い年の若き正セッター小橋カナだった。
曰く、日本チームはまずまず頑張ったが、藤永と小橋が足を引っ張った。この二人がエースアタッカーとセッターでいる限り、日本がメダルを取る可能性はゼロに近いだろう。特に藤永は『手抜きのユミ』の異名通り、五輪前にもろくな練習をせず、夜は星の数ほどいるボーイフレンドたちと遊び歩いていた。協会はただちに藤永を代表から外すべきだ…
(つづく)

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2010.11.14 Sun l 泣き虫エリナ l コメント (2) トラックバック (0) l top
『うるさいんだよ!ハイエナども!』
祐実は、思わず吐き捨てたい気分だった。
『あん時は腰が痛かったんだ~!』と叫びたかったが、そんな声は誰も聞いてくれそうにない。
そんなイライラ、ストレスを発散するために、夜遊びを続けていたある日、チームマネージャーが青くなって飛んできた。
「大変だぞ祐実!お前、男と一緒のところを写真に撮られたぞ!」
「へ?」
マネージャーが持って来た写真週刊誌を引ったくって目を走らせたのだが…
そこには、祐実自慢の真っ赤なアルファ・ロメオの車内で、抱き合って熱烈なキスをする祐実と若手アイドル、唐木慎乃介の姿がはっきりと写されていた。
しかし、それを見た祐実の第一声は、
「な~んだ、これか」
だった。
マネージャーが男と一緒のところを撮られたなんて言うから、エッチな動画でも流出したのかと思ったのだ。
実際、付き合った男の中には、いわゆるハメ撮り好きがいて、調子に乗って撮らせたことも一度ではない。
他の男に写メでヌードを撮らせたなんて数えきれないほど。男は誰も鍛え抜かれた祐実のプロポーションに感嘆の声を上げたし、実は祐実自身も男のオチンチンを撮るのも好きで、けっこうな写メコレクションを持っていたりする。
それ以外にもいろんな武勇伝があり、つい先日には六本木のクラブのVIPルームで、アメリカ人のバレーボールコーチといい感じになってしまい、酔った勢いでその場でメイクラブしようとしたら黒服に止められ、頭に来て突き飛ばしたら警察沙汰寸前にまでエスカレートしてしまった。
これも公になれば、けっこうな騒ぎになるだろう。
そんなことに比べたらキスぐらい大したことはない。
その夜は、車の中でディープキスを交わし、体をまさぐりあった後、相手の唐木が仕事があるとか生意気なことを言うので、その場で車から降ろして、別のボーイフレンドとホテルで落ち合ったのだった。
だから唐木慎乃介とは寝てすらもいないのだ。
(キスぐらいで騒いでるんじゃないよ!)
そう高をくくった祐実だったが、このスキャンダルは意外と高く付くことになる。

唐木慎乃介はまだ17歳で、芸能界で隠然たる力を有する男性アイドル専門のプロダクション期待の星だった。
四人組ユニットの中心メンバーとして大金を投じたキャンペーンを展開中で、ゆくゆくはソロでスターに育てるプロジェクトが組まれていたのだ。
さらにその大手プロダクションは、世界大会のマスコットに若手アイドルを投入するなど、バレーボール界と深いつながりがあったこともあって協会に対して厳重に抗議してきた。
結局、祐実は所属チームの親会社の取締役からじきじきにお説教を食らうことになる。
もちろん、そんなことで反省するようなヤワな祐実ではないが、それを契機に五輪前には断るぐらい来ていたテレビ出演や雑誌の取材がパタリと無くなってしまった。
逆に派手な男関係の証拠をつかもうと、マスコミに四六時中張り込まれるハメになる。
それでも強気、楽天的、世界は自分を中心に回ると信じ込んでいたユミちゃんだったが、所属チームから、『このままでは来期の契約は結べない』と宣告された時には、さすがに青くなった。
(つづく)

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2010.11.15 Mon l 泣き虫エリナ l コメント (2) トラックバック (0) l top
『ふん、スーパースターの私を欲しがるチームはいくらでもあるさ』
そう強がったものの、老舗チームすら持て余す札付きのわがまま娘を、あえて拾おうというチームも現れそうになかった。
『上等だよ!どのみち私にゃ日本は狭すぎるんだ。こうなりゃ海外に移籍してやる』
勝手に海外雄飛を画策するも、世界的な知名度もイマイチな日本人選手においそれと声が掛かるはずもなく…
海外事情に詳しいスポーツジャーナリストに聞いてみると、アプローチすれば受け入れてくれるヨーロッパのチームもあるだろうが、その場合、年収は今の5分の1程度になる覚悟が必要とのことだった。
『ご、5分の1って…フリーターじゃないっつーの!』
と、一人で怒っても誰が救いの手を差し伸べてくれるわけでもない。勝手気ままに生きてきたから人脈なんてありはしないのだ。
このままじゃ干上がってしまう。アルファ・ロメオのローンだって残っている。
八方塞がりの状況で、残された道がひとつしかないことは、祐実自身にもよくわかっていた。今までの所属チームに詫びを入れて復帰する。これしかないのだ。
さっそく行動を起こした祐実は、親会社の担当役員や監督の前で今までの不行状を詫び、心を入れ替えてバレーに打ち込むことを誓った。
もちろん心の中では悪態をついていたが、頭を下げながら涙さえ流して見せた。
手抜きのユミちゃん、一世一代の大芝居。
結局、男は女の涙に弱い(美人ならなおさらだ)。迫真の演技の甲斐があって、なんとか現状維持の年俸で再契約することが出来たのだった。
もちろん、もう一度スキャンダルを起こしたら、即座に契約を解除するとの条件付きだったが。

無事チームへの復帰が決まったものの、チームにはそれを快く思わない勢力もいた。ハッキリ言ってほとんどのチームメイトが祐実の傲慢さやスタンドプレーを嫌っていたのだ。
復帰後、初めての練習に出た時など、なんとも白けた雰囲気が漂ったものだ。
(ふざけんじゃないよ!調子のいい時には、ちやほやと近寄ってきたくせに!)
ユミちゃんの辞書に自業自得の文字は無い。ただ、人生初めてのピンチを乗り切ったことで、少しだけお利口さんになっていた。
チームメイトたちに無視されても、練習では積極的に声を出して、元気を前面に押し出すことにした。
どこのチームにも実力は大したことが無いのに、元気だけを取り柄にムードメーカーと呼ばれる選手がいる。祐実はそういう手合いを心底軽蔑していたが、あえてそれを真似ることにしたのだ。
練習にはかつて無いほど真面目に取り組み、苦手なウエイトトレーニングやゴキブリより嫌いなランニングでも積極的に汗を流した。
とにかくバレーで失った信頼を取り戻さなくてはならない。バレーボールはチームプレーだから、チームメイトの信頼なしでは試合でボールが回ってこないのだ。
そして得点を稼がなければ給料が上がらないことに遅らばせながら気が付いたユミちゃんだった。
(今に見てろよ。あともう少しガマンすれば、再び私がチームを仕切るようになる。そうなりゃ誰にも文句は言わせない)
何事にも自分が中心じゃないと気が済まない祐実らしい理論だが、事態は祐実自身思いもよらない方向へ動いた。
五輪後、長期に練習をサボっていたせいか、痛めていた腰はいつの間にか完治していた。
ウエイトトレーニングの成果で瞬発力とパワーが目に見えて上がり、スパイク決定率は飛躍的に上昇。走り込むことで試合の後半で息が上がることも無くなった。
スピードと勝負勘は増し、結局以前と同じように試合ではほとんど全てのチャンスボールが祐実に回されるようになり、チームは優勝を、祐実自身は得点王を争うまでになっていた。
(私って…やっぱりスゴい!)
(つづく)

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2010.11.16 Tue l 泣き虫エリナ l コメント (2) トラックバック (0) l top