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続いて一平が目を付けたのは山歩きだった。
深田久弥の名著『日本百名山』を下敷きに、新たに全国から100の山をチョイスして、それを踏破しては、その模様をテレビカメラに記録して行くという『一平版日本百名山』をスタートさせたのだ。
かつて、『スポーツは見るのは好きだけど、やるのは嫌い』と言って憚らなかった一平だったが、百名山踏破に向け、プライベートでもトレーニングを始めていた。
スリムだった体にも、お腹まわりに贅肉が付き始める年齢。そんな一平がトレーニングに励み、そして息を切らせながら懸命に山に登る姿に、同世代やさらに上の人たちが大いに共感し、世に空前のトレッキングブームが訪れた。

なにをやっても一平の人気は絶大で、もはや先駆者というより教祖とでも呼ぶべき存在にまつり上げられていた。
ただし、一平は自分をテレビ芸人以上でも以下でもないと自認していたので、怪しげな金儲け話などには目もくれず、せいぜいスポンサーであるスポーツ用品メーカーからシューズやウエアを提供してもらう程度だった。
一貫して金や地位に無頓着で、副業にも興味を示さないし敵を作る性格でもなかったので、暴力団関係者も一平に近付くことは出来なかった。

そのように一時は肉体を使うハードな仕事に没頭していた一平だったが、徐々にスタジオでの仕事にも復帰し始めていた。
レギュラー番組こそ滅多に持たなかったものの、改編時の特番や年末年始には引っ張りだこで、総合司会という難しいポジションが一平の定位置となっていた。
テレビ局の幹部やプロ野球の監督、さらには政治家や大企業のトップまでもが、一平におちょくられたり、いじられることにステータスを感じた。

そんな一平が50歳を迎えたある春の日、東北地方を未曾有の大地震と大津波が襲い掛かり、さらに原子力発電所の事故によって、日本は歴史上稀に見る危機に立たされることになる。
被害の状況をテレビで見て強い衝撃に打たれた一平は、さっそく大型トラックをチャーターし、それに水や食料を満載して東北に向かおうとしたが、すでに道路は封鎖されていて被災地に入ることは叶わなかった。
それではと単身被災地に入ることを決意した一平は、懇意の内閣官房長官に直談判して、報道のクルーと一緒に現地入りすることを特別に認められた。

現地は一平の想像をはるかに超えるほどに悲惨な状況で、津波に襲われた地域は一面の瓦礫に覆われ、かつて映像で見た大空襲直後の東京を思わせた。
避難所とされていた中学校の体育館は底冷えがして、家族や家を失った人々は放心状態で、子どもたちには泣く気力すら残っていないようにすら見えた。
(ここでいったい自分に何が出来る?)
一平は自問した。
まさか、得意の一口ジョークやモノマネを披露する状況ではない。水も食料も不足する中、自分の存在は、ただの邪魔者でしかないのか?
一平は考えた挙げ句、同行のマスコミスタッフから1冊のスケッチブックをもらい受けると、まず子どもたちにそれに自分の名前を大きく書かせ、そしてカメラに向かわせた。
「東京のおじいちゃん。家は津波で流されたけど、僕たち家族はみんな元気です。安心してください」
情報が錯綜し携帯電話すら繋がらない状況で、被災地にいる家族や知人の消息を知りたくて、やきもきしている人々が日本中にたくさんいたのだ。
一平は、少しでも協力出来ればと、子どもたちを撮影して、その姿を全国ネットで流させた。
「ずっと、おなかが空いてて死にそうです。でも、生きててよかったです」
「お母ちゃんが津波にさらわれて行方不明です。お父ちゃんが毎日探しに行っています」
「おじいちゃん、死んだらいかん」
子どもたちの生の声は視聴者の胸を打ち、テレビ局には募金申し込みが殺到した。
(つづく)

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2011.09.19 Mon l 燃えろ一平!プロローグ編 l コメント (0) l top

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